物語の背景は原作に従いますが、主人公の命運はその限りでは無し、それや如何に。

引き揚げの慌しさに紛れて、僕は臨時便に乗った。村を発ったのは午後の遅くにであったから、今は宵の頃合になる、共和国の首府が置かれるジュノーへと降り立った。国際線が発着する埠頭へと、僕は小走りに駆けた。横付けされたひとまわり大きな船体、その横腹に沿って鋼板を延べた歩廊が続いている。間際まで見送りを惜しむ姿が幾つか残っているが、夕方より始まった乗り込みの混雑はとうに過ぎたらしい。結局あれっきり見送りにも来なかった彼女のことを、つい僕は考えた。項垂れて最寄りの搭乗口をくぐった。
飛行船ふたたび
自分の席を探した。座席は六割がた埋まっている。旅先の見聞を得意げに声高に語り合う連中がいれば、すでに背を傾けて寝る姿勢に入った者もあった。ああいう事件や事故のあったことは微塵にも感じさせない、行き過ぎた日常に僕は戸惑った、そこへ帰り着いたことを安堵すべきなのだろうけど、何だろう、解らない、何も知ろうとせずに薄っぺらい上澄みをのうのうと泳いでいる人間への苛立ち、だろうか。
緩やかな上下動と羽音のような機関の振動が聴こえている。寝付けない。照明が淡いそれに変わって小半時は経ったろうか。席を立った。
座席の間の通路を進むと、間仕切りを介して船尾の側は、色々のための空間になっている。例えば手洗い場があって、生ぬるい水が出た。口をすすぐに留めて、流しに返した。狭々とした個室の並びを過ぎると階段があった。上手を仰ぐと、柔らかな光が降りてくる。あちらは上等の客室になっている。備え付けの応接間があって、賭け事の卓が立ち、高い酒を飲ますと聞いた。僕には与り知り得ない世界だ。他方は暗がりへと降りてゆく、辺りを見回し、今は人目の無いことを確かめ、僕は段差へと足を掛けた。
短いそれが終わると、低い天井のあちこちに裸電球が揺れる、薄平たい空間になった。
木箱の梱包が大小いり混じって並んでいる、暗くて読み取れないが、それぞれに来し方と行き先を示した標識が張られている。下層の面積の大半は、貨物を容れる区画に充てられている。見渡す中には企業からルーンミッドガルドへの荷もあるだろう。そこには、灰色の髪をした娘が言ったような類もあるいは、いや、僕は到底、信じられなかった。それに決着をつけるべくして、僕は途方に暮れる。外見よりそれと判る装いがなされている筈は無かった。手の甲で小突いて尋ねても、八百屋でカボチャを選ぶようには行かない。
何だか馬鹿らしくなって、途端に眠気が差してきた。引き返そうとする。そこへ幾何学的な明暗の影から不意に、男が躍り出てきた。上擦りがちの若い声を努めて低く抑えながら、彼は呼ばわる。
「懲りない奴だな、まったく!」
「確かに、今日は中央に応援が行っている、何時もの護衛ひとたちは居ない、いかにも僕ひとりだ、」
「だけど、だからこそ、僕はお前を見過ごすわけには行かない!」
どういう人違いか知らないが、彼の不幸はこう続けたことだ。
「それに、お前は弱そうだ!」
ああ、如何にも俺は非力だよ、しかし、幾度とその罵りに甘んじると思うなよ。
「企業とやらは、火の粉を巻き散らかすことでは飽き足らず、この頃はみずから喧嘩を売り歩くようだな、」
「いいだろう、買ってやろう、二割増しで買ってやる」
挑発に男はつかのま怯んだが、それを追い遣ると腰から棒を引き抜き、打ち掛かってきた。
威勢はいいが、心得は無いらしい、彼は遮二無二それを振り回して挙句に片手の荷箱を叩いた。取り落とした得物を慌てて拾い上げようとするところへ踏み込み、拳を見舞った、浅い、勢いのままに彼の体を押し、追加を繰り出した、彼は体を屈して避ける、代わりに木箱の横板が大きくたわんで拳を受け止めた。留守になった腹に下から圧が膨らむ、押し返す間もなく僕の体は半ば浮いて、向かいの荷へと叩き付けられる、頭突きがまともに入って胃液が喉元まで上がった。息を詰まらせながら、僕は背へと肘を落とした、それなりに効いたようだが彼は怯まずに足元へと手を伸ばす、取り落とした得物を拾い上げようとする。僅差でそれを蹴り遠のけ、緩んだ戒めより僕は逃れる、仕切りなおしの距離を作ろうと、大きく跳び退いた。
そこへ唐突に、重たい一撃を食らった。打たれた後頭部から鼻先へと衝撃が抜ける、僕は平衡を失った、片手の荷にすがり眩暈を堪える。お前ひとりではないのか嘘吐きめ、背後を確かめる、求めた敵の姿はない、ただ低い位置を太い梁が渡っていた、畜生。元へと向き直る、すると目前には迫り来たる拳が、忠犬よろしく棒に構っとれよ、毒づく間もなく、視界の片側で派手に火花が散った。寄り掛かる荷箱の積み重ねを引き倒しながら、僕はもんどり打って倒れ込んだ。荷箱の内容が散った、比重のある重量が床を叩き、鈍い音を立てた。
辛うじて上体を起こす、太陽を直に見たような焼け付きが残って何も映さない、右は諦めて左を強く凝らす。情けない奴め、若い男は思いの他に綺麗に入った一撃に呆然とした表情をして、ともかく、足元の棒を拾い上げる。此方へと一歩を踏み寄せる。這いずり下がろうと僕はもがく、床を伝った手が何かを探り当てる、手の皮の張り付きそうな冷たさ、僕は取り上げた、掲げ、男へと突きつける。新たに踏み出そうとした男の足が止まった。息を殺し、睨み合う、長い長い数秒間、そして男は足を引こうとした、一歩、二歩、しかし三歩目は数えず踏み止まった。血の気の引いた面持ちをあげ、僕を真っ向から見据える、交わる視線の直上へと構えた手の内を強く握り込んだ。
「兄さん、僕は知っているんだ、」
「知っているんだよ」
始めは呟くように、自身に言い聞かせるように。
「こうすることが、企業の連中の汚い仕事に手を貸すことだって、判っていて、でも僕はこうして、それは、」
「貧しい生活に落ち込むことが怖いんじゃない、」
「僕は、」
「あなたとは違って出来の悪い僕を、ここまで引き立てて、使ってくれる、でも仕事の本当は僕には隠して、それは僕を苦しませまいという優しさから、苦悩や葛藤は自分のうちに仕舞い込んで、」
やがて強く、そうして溢れ出ようとした言葉を矯めて、短く、叫んだ。
「僕は怖い、優しさと信頼を裏切ることが怖いんだ!」
終えると同時に床を蹴る、僕は右手をもたげる、僕は、撃鉄を起こした。
「そこまでだ」
低い男の声が飛んだ。船首の方向から掛けてくる複数の足音がし、船員の服装をした数人が姿を現した。硬直しながらも収まらぬ、敵意の間に割って入り、引き離した。床に散った光景に、息を呑んだ気配があった。
「いや、構わない、持ち場に戻ってくれ、ただし口外は無用だ」
有無を言わさぬ口調で、同じ声が命じた。足音が遠のく、若い男も連れられて行った。床に張っていた左手を崩し、僕は床へと横たわる。緊張が緩んだせいか、今頃になって右目が疼き始めた、鼓動に合わせて、根の深い鈍痛が頭に響く、眉間に手を遣って僕は呻き声をあげた。投げ出された鉄製を、残った男が拾い上げる。気配を感じて生きている側の片目を開くと、銃口が見下ろしている。存外ちいさなものなんだな、そんなことを思った、体は動かない。引き金が引かれ、かちんと鳴った、それだけ。
「よう、あの時の客人、世間とやらは余程に狭いらしい、な」
同意を求めるように彼は言って、愉快げに笑った。すると、彼の顔面では、鼻梁を斜めに裂いた傷跡が引き攣れる。相変わらず、笑顔には見えなかった。
狭くなった世間を手探りしながら、船長の後に続いた。下層を潜って、船首の側の階段を上がった。彼の私室へと通される、手狭だが調度の整った部屋である。椅子を勧められ、腰を降ろした。
「狭いといえば、俺の弟とも会ったようだなあれから、互いに脛に傷持つ身、深くは問わないが、」
「他人の用事に首を突っ込んでのことだろう、たいがい懲りないものだな、なあ」
今さっきの一件もあって、僕に反駁の余地はなかった。
「鏡を持たそうか、全く酷い顔になっている、いや、失礼」
笑いを堪えようとし、却って大きく噴きだす。心にもない詫びを付け足した。初対面の僕の不躾を未だに根に持っているらしかった。僕は話題を変える。
「積荷のなかにああいう武器の類があることは、知っていたのですね?」
彼は答えない。
「機会は多いのですか? 受け取り手は?」
僕はいまだに否定の言葉を期待する。彼は席を立ち、傍らの棚から硝子の器を取り出した。別の瓶から透明な液体を注ぎ、戻った。向かい合う間のテーブルへと、ふたつを降ろした。一方を、僕へと勧めた。
「すまないが、こんなものしかない、空では飲まないことにしている」
なるほど、水だ、微かに清涼な香りがついている。
「そう、この空にあり続けるためには、企業の仕事を断る訳には行かない」
忌々しげに、彼は言った。
「何故?」
「弟が何処まで話をしたかは知らないが、飛行船の動力を担っているルーン機関は、実はあれは不完全な代物だ、定期的な整備を必要とする」
「そこに必要な技術や資源は皆、企業が握っている、彼らを敵に回したとき我々は空を失う他にないんだ」
「貴様には判らんだろうな、翼をもがれることへの恐怖は」
厳しく突き放すように、そう結んだ。軽々しい口出しを僕は恥じた、しかし、ここで引き下がることは娘からの非難のいわれを認めてしまうことではないか。もどかしい沈黙が過ぎる、僕は苛立ちを募らせる。硝子の内側で液体を回しながら、船長は僕の言葉を待っている。
舷側へと通じる丸窓が砕けた。硬質の破砕音、咄嗟に身を庇った頭上へと、四散した硝子の破片が降った。さなかを黒い姿が過ぎる、空気の抜けたゴム鞠のように、床に低く跳ねると赤黒い液体を引きながら壁際へと滑った。
「やれやれ、貴様との話には邪魔が入ると決まっているようだ」
自嘲めかしく船長は言った。すでに椅子を蹴り立ち、背にする剣架から一本を、引き抜きなりに逆手に構える。距離を詰めながら刃は水平へと上がり、それより滑らかな銀弧を描いて目標へと落ちる。形の真ん中を貫き、余った切っ先が床へと突き立った。立ち上がろうとした四肢を弛緩させ、嫌な姿は動かなくなった。
廊下との扉を跳ね開け、船員が駆け込んできた。
「船長!」
「ああ、判っている、此方にもいらっしゃったところだ」
引き抜いた剣先に指し示される、扉の陰を覗いて船員は上体をのけぞらせ、視線を外した。破れた奥の窓から風が抜ける、調度を覆っていた布地が大きく乱れ、波打った。介さずに、船長は言葉を始めた。
「季節には渡りの獣と出遭すこともあったが、ちかごろは関係なく現れる、群れをなして、敵意をあらわに、以前には考えられなかったことだ、しかも大型の商船ばかりを狙って」
「この空に宿る意思が、ああいう不幸な荷を運ぶことを咎めるのか」
誰にでもなく、彼は問うた。それへの答えは既に、あったようだ。
「だが、」
「愛する女の意に添えぬことは残念だが、俺は身勝手だからな、忠告を無碍に断ってでも、その傍に留まることを諦めない」
「地に叩き伏せられる運命が、待ち受けようとも」
決意の変わらぬことを、いまいちど確かめると、戸口に立ったきり気まずそうに聴いていた船員へと視線を移した。
「君、質問だ」
不意に指された彼は跳び上がるようにして、姿勢を正した。
「こういう場合、我々が優先すべきは?」
「お客様の安全を第一に考えます!」
「正解だ」
悲壮な気配は一瞬にして追い遣られる。意を解した船員は場所を下がり、道を開いた。行為に目礼を返し、船長は大きく敷居を跨ぎ越した、廊下へと、僕は後を追いかける。船員も続いた。彼はすこし誇らしげな表情に変わった。
「俺としては船の方が、いや、何でもないぞ」
呟きが聞こえた。
扉を開ける、激しく組み合う気配と怒号、悲鳴が寄せてくる。恐怖という透明な圧力を渾身の気迫で押し返し、ひたすらに前へと、妨げを蹴り退け、振り払い、通路を船尾の方へと駆け抜ける。
混乱の中には勇ましく立ち働く姿があった。守るべきを背に庇いながら、恐慌の縁に踏み止まる。船員の姿もあるが、率先するのは旅行者のなりをした姿ら、薄っぺらい日常を踏み抜いて非日常へと落ち込んだ世界の底を支える。四足の獣を牽制する、低く構えられた刃はすでに血を帯びる、彼の頭上を抜けようとした羽音を、何処からか飛来した矢が打ち抜いた。いくらか下がった位置では眠たげな男が何かをぼそぼそと呟く、寒々とした気配があたりに渦巻き始める。
「俺の船を壊さんでくれよ、頼むから、ああ、見ていられない、」
船長が嘆き、眼を覆った。
「ここは、手は足りているようだな、上だ、上へ行くぞ!」
加勢を引き揚げ、船尾へと向かおうとする、僕は従った。客室を抜け、階段を上へと、ふたつ飛ばしに段差を駆け上がる、足裏に心地のよい絨毯を踏んだ、廊下の左右に一等の客室が連なる。息が上がる、話に聞いた応接間を見回す間はなく惜しいことだ、突き当りの両開きを蹴り開ける、猛烈な勢いで外気が吹き入ってくる。
「船長、やつら回転翼の機軸に取り付いて悪さを、」
「うむ、船足が落ちているな」
甲板に降りると、先に出ていた船員が彼を認めて言った。両の腕を顔の前にやって風圧から目元を庇いながら、僕は薄暗さを見通そうとする。船の背負う気嚢が頭上に被さっていることは判るが、右目の利かない不自由を恨むに終わった。
「よし、機関室に状況を伝えろ、高度を保て、船足を落とすな」
踵を返して僕は駆け出そうとしたが、上着の裾を掴まれ、引き戻される。耳元で言った。
「お前は残れ」
僕ではない、他の船員が駆け出していった。
残った船員と僕を引き連れ、船長は場所を移った。まともには歩けない、這うようにして僕は進んだ。回転翼が大気を掻く気配が、轟々と感じられる場所へときた。整備の足場が気嚢の下端に沿って設けられているのが、漸く慣れ始めた視界に判った。足場といっても、それは簡素な鋼材の組み合わせでしかない、動揺に合わせて耳障りな軋み声を上げている。そして今、そこへ上がる梯子が船員の手で繋がれた。
「よし、上がるぞ、」
有無を言わさず、船長は僕の尻を押し上げる。
「飛行船の詳しい仕組みを知りたがっていたよな、いい機会だ、見せてやろう、よもや断るまいな」
言って彼は笑った、倣って僕も顔を引き攣らせた。

Count:5,764 (1:47 2009/03/26)