物語の背景は原作に従いますが、主人公の命運はその限りでは無し、それや如何に。

背にした町は遠くなり、振り返る都度に輪郭は薄れ黄褐色の砂礫の向こうへと、僕は尚も目を細めながら、もう幾度になる問いを繰り返した。彼女は何故、来なかった。解りきった答えには手を伸ばさずに、それとは違う答えを探して、僕の思索は同じところを果てしなく巡った。
そうするうちに陽は落ちた。西の空には細い月が残っている。こう、手を伸べて問うてみる、君は何故来なかったのか、と。月は応えずに青白い横顔を向けたきり夜のあちら側へとするすると滑り降りて行った。小石をひとつ拾い上げ苛立ちを込めて僕は西へと放った。何処に落ちたとも知れない。
フィゲル
翌の夕刻、僕は麓より見上げる、丘陵の中ほどに点々と灯が散っている。半日と一昼夜の間に随分と薄汚れた地図を、僕は懐へと畳み込んだ。負けず劣らずよれよれの足取りで、僕は傾斜を上がってゆく。
陽は稜線へと迫るから、僕は急いだ。筋道の片手には小石の目立つ荒れた耕地が広がっている。納屋らしき建物、傍らには農夫の姿があるが、僕には気付かぬふりで陰へと隠れた。あとは草原、崩れかかった石垣がところどころ縦横に切り分ける。やがて勾配は緩み、足元は粗末ながら石畳へと変わった。
木造に土壁の素朴な家々が続く、路上にすれ違う誰かを呼び止めて僕は案内を請いたいが、誰しも不機嫌に黙りこくって足早に行き違った。一瞥すら貰えぬ僕はどうしようもない。
「これは何ともならないのではないか」
近頃、独り言が増えた。ぼやきながら行くと道は開け、広場になった。昼間はささやかな市場の立つようが、早々と片付けられて、今は覆いの掛かった露台と降りた表戸の面々があたりをやけに広く見せた。西の軒端からは既に影が長く伸びて僕の足元を浸している、そこから空気は夜へと冷め始める。
西日の照り残す一角に古びた掲示板があった。紙片が幾重にも鋲で捺し止められている、誰より誰へか、言葉を預かり、用事の済んだ上にはまた新た。そうした中に真新しく白一枚があって、僕の視線を招いた。
「自身の手が及ばないと知っていて手を差し伸ばす、貴方の良心は諌められるのかもしれないけど、私にはとても残酷なこと」
即座には解らずに、読み返してやっと僕は胸の奥をずきりと痛くした。破かぬよう慎重に剥ぎ取ると、ふたつ折りにされた内側には簡潔な地図が引かれてあり、上を訪ねなさいと一言だけあった。
紙片に教わるままに街路を行った。垣根の内側より夕餉の気配が伝わるが、僕を励ますものではない。頭の上には街灯が遠慮がちの間隔をして、現れては、僕を見下ろした。辺りの家並みとは異なる、大らかな造りの平屋が見えた。こちらに向けて年季の入った両開きの木扉を構え、隙間より一条の光を漏らしている。僕は扉の片側を押し開けた。納屋然とした屋内、片隅に雑多を押し遣ろうとした努力の跡こそあれ、なおも方々に物が散らかる。どうにか作った余白には机が置かれ、燈火を載せている。慣れない目に沁みた。
「遅かったわね、もうすこし早く着くと思った」
光の向こう側で、灰色の髪をした娘は僕へと振り返り、常と変わらぬ口調で迎えた。
「だいぶ待ったからね、君を」
昨日の苦労も今日の疲労もけろりと忘れて、八割がたは嬉しかったのだけど、残り二割の嫌な感情が喉につかえた。幼稚な物言いに我ながら嫌になる。彼女は何か応じようとしたが、奥で気配が動いて隣棟からの戸が開いた。見知らぬ女が顔を覗かせる、年の頃は解らないが僕よりは十やそこらは上だろう。その割には原色を使った派手な服を若々と着ている。
「誰」
僕を認め、女は好奇心を露わに尋ねた。どう答えたものか僕は困ったが、卒なく娘が割って入った。
付近の遺跡を調査しに中央からかなりの人数が村に来ていること、この寒村をしては寝所は手一杯、哀れあぶれた僕はせめて夜露をしのぐすべを求めて此方へと。雑用を働く代わりに置いて下さいと願いたてまつる、云々。僕は後のち齟齬の無いように、耳を傾ける。女は調査団の一員らしい。娘もまたというから、僕は彼女の立ち回りの良さに舌を巻いた。情けないことに心強く思いすらした。
「ええ、構わないわよ」
娘に倣って呼べば、先生はそう応じた。
「でも残念ね、」
「現場は捗らないし共和国の連中は内輪でひそひそ、仕事なんて無いわよ、飛行船の週に二回か三回かあるきりのこんな田舎に何時まで、まったく日々これ退屈よ」
何かの呪文のように愚痴を吐き尽くし、それから僕を思い出した。
「さしむき、この整理から頼もうかしら」
言ってぐるりと見回した。僕もそうして散らかりようを今一度確かめて、悟られぬようそっと、げんなりする。
「ま、明日明日、今日はもう終いにしましょう」
娘に向けて女先生は言いいつけ、木戸へと向かった。
「夜はこれからというのに、何て真っ暗」
外を覗いて、そう嘆いた。
娘が燭台をひとつ取って後へと従った。僕もまたついて行こうとすると、鼻先に指が一本たって、僕を阻んだ。
「貴方は此処に泊まるの」
娘は言った。
村へと降りる方へと足音ふたつが遠ざかってゆく。にわかに薄暗さを増した屋内に僕は一人残った。布地のほころびた長椅子を隅に見つけ、僕は身を横たえる。見上げれば荒削りの梁と梁が交わり、屋根裏の埃っぽい空気を影が渡っている。じきに目を瞑る、背中が湿っぽい、明け方は冷えそうだ、彼女が無事でよかった。
何時までも寝ていようと思ったが、寝違えて節々が苦しいので体を起こした。凝った背筋を伸ばしながら、顔を洗おうと僕は表に立った。陽は低からず高からず、午前は中ほどであった。しかし何だろうか、路上に三々五々と人の出があった。僕を知ると悪事を見咎められたような気まずい顔をして、皆程なく散っていった。首を傾げてようやく、足元に散らばるくすんだ赤に僕は気付いた。点々と続いて、僕は追って背を振り返った、そう点々と、壁に及んで這い上がり、緋色の掌に姿を変えている。今しがた僕の押し開いた木扉は特に念入りに撫で回されて赤い赤い。程度の低い悪戯と笑おうとして、僕は背に来る悪寒をどうにも拒み難かった。
二度寝の心地はさぞかし悪かろう、この不吉な装いの内では。僕は諦め、続く点々を追うことにした。山の手へと上がってゆく、民家の数件を過ごすと村を外れ、足元は砂利へと悪くなる。痕跡を追うことは難しくなった。足元ばかり見ていた僕は顔を上げて渡る風の心地よさに気付く、僕は気を良くして先へと行こう。なだらかな草原には遠く近く石灰色が顔を覗かせる。いっとき登りが急になり、それを上がりきると丘陵の頂へと立った。
石を積んだ住居があった、今はとうに崩れ落ちて壁面の一部を残した。石を延べた石畳があった、もっとも今は方々から草木を噴いて荒れ果てた。そうした間を抜けてゆくと、向こう側は麓を見下ろす突端になった。崩れの縁に立って僕は、開けた視界の大きさに息を呑んだ。斜面の裏側にあたるのか、臙脂色をした村の屋根屋根は見えない。麓にかけて見渡される草原には石灰質の遺構が残っている、崩れの吐き出した土砂に侵されながらも、かって栄えた都市のあったことを教える。
そうした中に、緩慢に立ち働く姿があった。
「彼らはああして、企業の手から幾ばくかを与えられる」
背後に低い声がそう言った。荒んだ風貌をした壮年の男が、傾いで半ばから折れた白亜の石柱に腰を降ろしている。僕が来るより早くから、彼はそこを占め、やはり麓の方を遠く眺めていた。
「元より、村人から街への感情は良いものではない、」
「華やかな外見に羨望を掻き立てながらも、自身の手には入らぬことを知っていて、けなし、おとしめ、覆い隠すことで心の平穏を保とうとした」
「飽き足らず村を出て行った人間の大半は生活に疲れ果て帰ってきた、彼等は敗北の言い訳を街の裏切りに求めた」
「過去に企業と刃を交え行き場を失った俺のような人間を、村の人々が拾い上げたことは彼等なりの反抗であったのだろう、微々たる自尊心を守るために、そして、」
「何時か事は露見し、報いを受けるのではないか、彼等の臆病な心が生んだ想像に苛まれ続けた結果が現在だ」
「それが、ああして企業と交わることは、受け入れるべき変化なんだ」
「誰しも解っている」
「ただ、自らの在りようが、昨日と今日とで食い違うことへの躊躇いが、昨日までの自身を一時に失ってしまいそうな恐怖が、彼らにそれを許さない」
「かく言う、俺も同じだ」
「胸のうちに残してきた悔いや恐れ、憤りが、企業にとってはもはや問い直す価値もないと知って、」
「違う、時がそうしたのではない、」
「あの日あの時において既に、企業にとっては何でもない瑣末な出来事に過ぎなかった、そうと知って俺は俺という存在が崩れ落ちるような、底知れない虚しさを覚えた」
「今更何かに報いるべくも無い、既に終わった身であると、自身に幾度と言い聞かせるが」
男は立ち上がると、石柱の端面へと片足を掛け、遥か遠く西の方角を睨んだ。男がそうすると麓からの風が過ぎて上着の片袖を大きく薙いだ。彼の片腕が肩より先で失われていることに僕は気付く。
「此処からは宵になると、街の灯が見える」
倣って僕も目を細めたが、稜線が重なり霞む向こうには茫漠たる空のあるばかりだった。だが、彼の目には映るのだろう。
戻ると、女先生と娘が来ていた。
「真夜中の往来を、すっぽりと黒を被った姿が来ます、青白い裸足がひたひたと路面をうちます、」
「若い女の肘より先は血にまみれて、指先から血の滴がぽたり、ぽたり、伝い落ちて」
「顔は見えないのに若い女性と解るのですか?」
娘が聞いた。女先生は苦しげな顔をしたが、すぐにこう返した。
「そういうものなのよ」
「そうですか」
案外、娘はすんなり引き下がった。しかし、女先生は話の腰を折られて趣が醒めた様子で、何処からか持ち出してきた月遅れの古雑誌をめくること再開した。娘は刷毛を手にして、青い錆びの浮いた何か金具を撫でている。僕は、なるほど、暇でいる。表はいい陽気になった。
思い出したように女先生が口を開いた。
「しかし、こう続くのは本物かもしれないわね」
「以前もありましたか」
「ええ」
安らかな眠りを賭して僕が問えば、女先生は顔を上げずに事も無げに答えた。
「今晩辺り、枕元に立つかもしれないですね」
娘も言うから嫌になる。
「それは構わないけど、困るのは村の人達の士気が上がらないことね、元より畏れのある場所にこれだから、調査は遅々として捗らない」
僕の不幸は意に介さずに、女先生は言うと立ち上がった。
「よし、私みずから掘ろう」
「共和国の方がいい顔をしませんよ、きっと」
娘がすかさず手綱を引いた。女先生は大きく嘆息して、尻から椅子に落ち込んだ。
「なのよね、発掘の主体は共和国にあって、私達は客席に甘んじなければならない、面白くない実に面白くないわ」
険しい顔になって、言った。そして脈絡なく僕に視線を止めた。
「あなた暇そうね、なら表を綺麗にしておいて」
僕は助けを求めて娘を仰ぎ見たが、彼女は無言で湿った雑巾を投げて寄越した。
それからしばらく、表で雑巾を絞っていると、前触れなく女先生が木扉の左右を乱暴に押し開けた。村の賑やかな方へと、ふらふら降りてゆく。
「甘いものが食べたい」
後ろ姿がそう言った。
「貴方の国の女性って皆、あんなの?」
遅れて現れた娘が、慌てて追いかける素振りをつかの間とめて、僕に問うた。
「まさか」
「男が甘やかすから付け上がるのよ」
迷惑そうに言い捨てて、杖を使いながら降りて行った。それは八つ当たりというものだ。それより君こそ、甘えることを覚えたらどうか、口の中で小さく僕は言った。
表の掃除は適当に切り上げて、今は面白くもない古雑誌を顔に伏せって取り留めなく想っていた。すると、長椅子の背の側にある窓が外から、かつり、かつりと鳴った。風に揺れた木の枝が叩きでもするのだろう、応えずにいると、かつかつ、かつり、先より繁く、鳴った。体を起こし、僕はそれへと向かう、表を伺おうと窓枠に手を掛けた鼻先で摺硝子にべったりと掌が張り付いた。窓はがらりと自ら開いて、娘が顔を覗けた、土間へと転がり落ちようとする僕を見て意地の悪い笑みを浮かべた。
「ありがたく賜りなさい」
彼女は編み籠を指先に吊り上げると、勿体つけて僕へと手渡した。食欲をそそる匂いがした。彼女らが借りる村の宿所の下男が呼びに来ていたが、何の気まぐれか娘が代わったらしい。表に回ればいいのに、抗議の言葉は一緒くたに咀嚼して飲み込んだ、差し出されたそれを手にとってしまった手前、もう何も言えない。窓枠に上体を預けて娘は僕を見ている、檻に飼われる小動物のような情けない心持になりながら、僕は籠の内容を黙然と、口へと運んだ。
「片付けは大変だった?」
彼女は白々しくも、そう尋ねた。口の中を落ち着け、僕は答える。
「それはもう、大変だった」
「そう」
「ああも念入りに汚さなくたって」
「咎めるべき貴方は内で高いびき」
「失礼な、僕は鼾なんてかきやしない、それに昨夜は酷く疲れていたんだ」
「どうかしら」
君の仕業か、とは、僕は問わない。
「企業は何を探してんだい?」
「さあ、ルーン機関の動力源がどうのこうの、難しいことは私は知らない、アインブロック鉱山の二匹目の泥鰌を、ということかしら?」
「ふうん、通りで学者先生は暇な訳だ」
「彼女の随員と称して、私たち組織の人間を村に入れたのは良かったけど、あればかりは人選を誤ったわね」
「動き易くていいじゃないか、余計な詮索をしないあたり、ああいうのを器が大きいというのかな」
「良くないわよ、器を満たす私は大変」
「結構なことさ、少なくとも彼女に掛かりっきりの限りでは、君には危ういことは無いだろうし」
言って、僕はちらりと娘の顔を窺ったが、特に感じるところは無いようだった。
「元より危ないことなんて無いわよ、」
「善良で小心な村の人達のこと、元より彼らの内にあるちょっとの反感と恐れを煽ったところで、何か荒事の起こりようが無いわ」
事態は思いのままに手の内にあるように、娘は言った。
「発掘が滞って企業が困るのが関の山よね」
得意そうに、そう付け足した。
何時に無く、娘は良く話し良く笑った。つられて僕も調子を合わせる。それでいて胸中を過ぎる虚しさは、僕が君としたい話は世間話ではなくて、しかし移ろう話題に割って入り損ねて、何より昨夕の様な気まずさに陥ることが恐ろしくて、僕はただ空虚な相槌を繰り返していた。似合わぬ饒舌さの裏側には、彼女にも同じ気遣いがあったのではないか。僕がそう思い当たったのは、空になった籠を下げて、杖を手に、彼女が暮れる小道を引き返していった後だった。
夜半を過ぎて、半鐘が鳴った。
僕は夢を見ていた。壁に塗りつけられた赤い手跡は雑巾で拭えども拭えども片付かない、それもその筈、上流を見れば娘がせっせと掌を捺している。夢にすら思うに任せぬ関係に僕は呻いた、そこへ忙しなく打ち鳴らされる甲高い金属の音が届いて、僕を呼び覚ました。
余韻の浅い安っぽい響きだが、心を変に逸らせる。何を告げようというのか、僕は表に顔を覗けた。街の中に火の気配は無いようだが、表の小道を燈火が上がってくる。数人、また数人が行過ぎて、小道の先の山の手へと上がってゆく。僕は躊躇ったが、どうにも落ち着かぬ心に負けて、途切れを待って列へと加わった。幾らも行かないうちに村を外れ、周囲は夜の闇になった。
砂利を踏む乾いた音がする。風が通ると草の擦れ合う音が生まれ、遠ざかった。夜は遅いせいか虫は鳴かない。前を歩いている姿は低く何かを話すが、聞き取れない。彼らの漏らす灯に覚束ない足元を探りながら僕は歩いた。行く手を窺えば、燈火の列が丘陵の頂へと上がってゆく。ひとつひとつは明滅を繰り返しながら、燈火の列は丘陵の頂きへと上がってゆく。
暗がりに仄白い輪郭がときおり浮かび、遺跡の一帯に立ち入ろうとすることを告げる。傍らを過ぎる燈火を受けて構造らは何れも、昼間とは異なった顔を見せる。高らかな上代の気配を冷えた空気の中に嗅いだ気がした。
いっとき苦しかった足元の勾配が緩むと、先は幾らもない。村人らは燈火を降ろすと足元に崩れを見下ろす突端へと立った。決して広くは無い場所を分け合って、沢山が息をしている。後から遅れて上がってきた姿がまた、加わる。隣との近さに息苦しさを覚えた僕は人垣から身を引き、外れの方へと場所を求めた。余地を見つけ僕は前面へと立った。
裾野が荒野へと移ろう様を一望すべきには、今は一様の闇が湛えられていて如何に目を凝らそうとも底を窺えない。彼らはこの夜に何を望もうというのか。違った、彼らは遠く水平の空を見ていた。彼らは見ている、赤を帯びる空を。朱を溶いた銀の濛気が稜線の裏側から始まり、地平に接する空の底辺に立ち籠める。雲がその高くに浮かび鮮やかな茜を映すと、赤は熟れながら尚も上がり、中天に昇ろうとして夜の藍色へと均れた。あの空は、彼の指した空ではないか。展望の一隅を定めて片手を差し延べる姿を僕は思い出した。彼が続けた言葉をもまた。仰ぎ見る光景の意味を彼は教える。火焔の一帯は既に焼け落ち、辛うじて姿を留めていた鉄材もいま悲鳴に似た軋みを残して飴のように捻じ切れた。倒壊の衝撃が周囲の火焔を圧し、新たな赤を舞わせる、空へと。煙と熱気が吹き付ける路上には人間が茫然と立ち尽くしている。失われた命もあったろう。
頭を強く振るい、僕は脳裏の映像を追い払った。事態はあの赤の源に現出しつつあることを半ば諦めながらも、僕は拒み、意識の外に追い遣ろうとした。遠雷に似た、瞬きが光った。照り返しが走り左右に連なる影法師らの横顔を暗がりに暴く、見知らぬ誰かの生活を憂うる表情はそこにはなく、彼らは恍惚として光景に見入っている。培ってきた敵意の対象が、しかし目前にしては遠巻きに刺々しい視線を射掛ける他になし難かった相手が、火焔に身を捩り、鮮血の赤を空へと流している。それを前に、彼らは緩んだ口元に愉悦の笑みを隠そうともしない。
「燃えよ、滅びよ」
声ならぬ怨嗟と呪詛が大きく渦巻く只中に僕は眩暈を覚え、耳を塞ごうとした。君は知っているだろうか、過去がこうも現在を病むことを。それとも君もこの何処かにいて、彼らと同じく赤に濁った面持ちであの空を見上げるのか。恐れながら僕は周囲を見回した、しかし、とうに瞬きは去って辺りはもとの薄暗がり、誰が誰とも判らなかった。微かな安堵と同時に名状し難い疲労を覚えた。数人を左右に掻き分けて僕は列の裏手へと逃れた、空いた場所はすぐに他が詰めた。
それから如何にして真っ暗の野をひとり帰ったかは覚えていない。ただ、だいぶ来てから山の手を振り返ったとき、飽きることを知らぬ燈火が点々と残っていたのを覚えている。
窓の外はとうに明るい。影に引き込んだ長椅子に身を横たえ、僕は何をするでもなく今日の始まりを待っている。思索をめぐらすことは、とうに倦んだ。昼も遅くになって娘が訪ねてきた。
「女先生は退屈を余して、国にお帰りかな?」
「違うのよ」
「ちょっと、ついて来て欲しい」
軽口に応える気配は無く、視線を逃すと遠慮がちに言った。僕が頷くと、それきり踵を返して、半開きの侭にあった扉へと向かう。差し込んだ陽をくぐる横顔には何か思いつめる表情を見せた。伸びをひとつして僕は体を起こした。欠伸をかみ殺して僕は娘のあとを付いてゆく。村の向こう外れに巨大な紡錘形をした輪郭が、綱に繋がれ身を伏せていた。麓までの道すがら、改めてその大きさを思った。傍らの三角屋根が小さく見える。
「今朝の早くに着いて、街からの人間を降ろした」
「彼等が何を持ってきたかは聞いてないけど、企業の人間も何人か居たようよ」
「昨夜の事件に関係あることは確かだと思う、動きが俄かに慌しいから」
僕の視線を酌んで、娘は手短に教える。その間も彼女は足を滞らせることなく歩いた。僕は背中に問い掛ける。
「君は、どうしていた?」
「部屋にいたわよ、何処にも行かない」
なら、良いのだけど。けど、釈然とせぬ何かを素振りに感じて、胸のつかえは外れぬまま残った。追い付き並ぶことは造作も無いが、今の彼女は気安く話しかけることを許さない雰囲気で、僕は気後れする、それきり会話は生まれないまま、村の中ほどへと降り立った。昼を過ぎようという時刻なのに奇妙に閑散として、昨日までの後ろ首を刺々とやる視線も今はない。乗り付けられた飛行船の威圧に屈して、息を潜めるのだろうか。
人影はまばらな広場を足早に過ぎて、旅館を営む二階家へと向かった。迎える受付を無言で過ごして娘は内へと入った。廊下を幾らか歩いて立ち止まる、変哲なく続いている扉の一枚と彼女は向き合った。片手を軽く握りこみ持ち上げながら息を整える間を待って、控えめに三度ばかり叩いた。内より扉が薄く開いた。疲れきった表情をした男は何を恐れてか、落ち着きなく視線を惑わせた。
「お友達はお元気かしら」
娘が尋ねると、男の警戒が緩んだ。代わりに先に増して落ち込んだ気配を見せた。
「いや、あまり良くない」
「そう」
同情する風もなく、娘は短く相槌をくれた。
「遠慮してくれないか、用事が無いなら」
男は小さく言うと扉を引こうとした、娘はそれを阻み、出し抜けに問い掛けた。
「ねえ、もしかして、悔やんでいるの?」
「何を」
「彼女を救ったことを」
「まさか、悔いるものか」
「いいえ、本当は悔やんでいるのよ、ひと時の情に流されて、安穏な未来を失ったことを悔やんでいるのよ」
愉快げに、笑みに頬を歪めて娘は囁いた。
「やめてくれ、黙れ」
強く打ち消し、男は彼女の襟首を荒々しく掴み上げる、胸元の止め具が跳ねて、床を転がった。咄嗟に僕は割って入ろうとする、しかし彼女は片手で拒み、僕を制した。半身を無理に吊り上げながらも彼女は、怯まぬ双眸で相手を見返している。
「僕はただ、他の人々に強いた苦痛を思って罪に苛まれる、でもそれは彼女とは別のことだ」
苦しげに男が言った。
「違わない」
「そうして、かつての日常の遠いこと決して戻らぬことを自分に言い聞かせ、ともすれば懐かしむ心を殺すのよ、それが後悔に変わる前に」
娘は言い聞かせる、残酷なまでに詳らかに。
「僕は、」
「それ無しには、あなたは彼女と向き合えない」
抗おうとする男の言葉を易々と断ち切った。男の顔には怒りよりも困惑の色が濃い、庇護をもたらすべきが筈が、裏腹にもこの娘は何故にかくも敵意を剥き出しに自分を攻め立てるのか、彼には解らない。そして娘は、それを言わない。憎しみという実に節操のない感情を負いながらも、彼そのひとに、その咎の無いことを忘れない。彼を他と同じと決め付け、贖罪の一端を迫ることを自身に許さない。真に彼女が男の破滅を望むならば、それはあまりに容易い、残してきた街での人生を取り返す道筋を囁けばいい、男の心はそれより漏れ出し、遂には彼に残された唯一を喪うだろう。しかし君はそれを選ばずに、真っ向より彼へと挑んだ、寄る辺無きこの村に生きて行かねばならぬ現実を彼へと突きつけ、覚悟を迫った。現に男は、一度は伏せた視線を元の高さへと改めた、瞳は強く決意を灯した。
「まあいいわ、何れ試される、過去は必ず追って来てあなたの肩を叩くから」
娘は視線を外すと、既に緩んだ襟元への戒めを軽くいなし、くるりと裾を翻した。用事は済んだと無言で告げて、廊下を遠ざかる。どうしてだろう僕はその背を追いそびれた。
「無様な姿を見せた」
すこし気拙そうにに、男が詫びた。
「いえ、此方こそ」
僕は娘の代わりにそう応じて、床の一点に向けて腰を屈める。齢の近さに気安さを覚えてか、或いは高揚した気分がさせるのか、男は切れ切れに彼らの経緯を物語り始める。拾い上げた留め具を手の中で転がしながら、僕は聞いている。
「子供のころ、僕は一時期を市街の外れに過ごした」
「近所に幾つか年下の女の子が住んでいて、よく一緒に遊んだ、何もかもが楽しかった」
「でも、何時までも互いに無意識では居られなかった、何とも言えない気恥ずかしさに居心地の悪さを僕は覚える、何より彼女が貧しい地域に住むことが、様々な形をして僕らを隔てようとした」
「何時の間にか疎遠になり、程なく街中へと越した僕は、それきり会わなかった」
「さよならすら、言えずに」
「長じて僕は企業に勤める、その忙しい日々にふと思い出すことがあった、甘酸っぱくも温かなそれに僕の心は満ち足りた」
「思い出は思い出のままに、それで良かったんだ」
「なのに」
「僕は見てしまう、被験者の中に彼女の姿を、望んだのか強いられたのかは解らない、でも僕は良く知っている、彼女に与えられる苦痛を、奪われる全てを」
「此処に居ては駄目だ、言葉は喉につかえた、一研究員に過ぎない自分に何が出来ようか」
「日に日に衰え弱ってゆく姿を、遠くから見守る毎日が始まった」
「僕は苦しみ目を背けようとした、だけど出来なかった」
「彼女の時が尽きるのをただ待つ他ない、そこへ誘いがかかった、反企業を名乗る組織から、内情を漏らせ、さらば彼女を救う機会を与えよう、と」
「僕は彼らの提案を容れた、それが同僚達への、許されえぬ裏切りと知りながら」
「そして昨夜、事態は動いた、混乱に乗じて僕は彼女を連れ出した、か細く折れそうな手を引いて」
「船の積荷に潜みこの村へと、聞いてはいたが何も無い村だ、彼女に必要な薬すら満足には手に入らない、君の連れが寄越した言葉は身に沁みたよ、正直なところ未来への展望を描けずにいる」
彼はしかし再びそこに沈み込むことなく、強く、誓うように言った。
「でも、僕は決して、再び彼女を失わない」
熱っぽく続こうとする言葉は部屋の内側からの押し殺した咳き込みに遮られる。男は俄かに落ち着きを欠いて、背にした扉の握りへ手を遣りながらも惑うように僕を見た、会話を中途に立つことを悪く思ったのであろう。僕は片手でそれを断る。彼にとってその、どうにも仕方なく大切であることは良く良く知れた。扉が閉まる間際に、僕は小さく彼らの幸いを祈った。
広場に面して据えられた長椅子に娘は待っていた。幾らか間を空けて僕は隣に腰を降ろす。僕を認めて彼女は先の感情の名残を慌てて拭い、平静を作って言った。
「貴方も暇よね、惚気話に付き合うなんて」
「君が何も言わないからさ」
「当人から聞いたなら、良いじゃない」
恨めしく僕が睨んでみせると、彼女はそう答えて、ぷいと広場の中ほどを向いてしまった。
「彼らのことはね」
「でも、君が解らない、何故言わない、かつて僕に言ったように、兄を返して、と」
微かに、娘は身を竦ませた。
「無神経な質問」
そう僕を非難して彼女は逃げた。答えの無いことは元より知っている。問いかけは彼女への叱責に他ならなかった。さっきの男に、いっそ誰にでもいい、内に秘めたわだかまりを叩きつけて君の心が少しでも楽になるのなら、構わない。君がもっと身勝手であればいいと僕は願った。しかし君はそうせずに、悲しみを置き捨てる場所を選べないままに、今もそうして。君は気が付いたろう、過去を介して君自身と向き合う者なんて誰一人いないことを。男の姿に見たはずだ、昨日までは君の大切を奪った者の手足であったことをすっかり忘れ、今はひとりを守ることに夢中の。
「君は君を寂しい場所に捨て置いて、苦痛を告げずに救いを容れずに、ひとり涙を堪える、そんなのは僕は嫌だ」
「いいのよ、私は」
娘は諦めきったように、希薄な言葉で返した。僕にはそれが許せない。
「傍で見ている僕は、嫌なんだ」
見ているだけの僕は。
「嫌なら去ればいい、私は貴方を引き止めないし、知っての通り企業は大混乱、いまさら貴方を咎めることはないでしょう」
「君は残るのか」
「ええ」
「解らないのか、企業を良く思わない点で似ていて、村の人間と君とではそれはまったく別のものだ、決して分かち合えない、現に君はあの場所には居なかった」
解らない彼女ではないことを知りながら僕は、堪え難い苛立ちに押し流され彼女を追い詰めた。苦しそうな表情を浮かべ娘は俯いたが、何かが振り切れた様に短い笑いを吐き出すと顔を上げた。異様な光を帯びた瞳が僕を睨みつける、そして倒錯的な笑みに歪んだ唇が言った。
「そう、なら何処に私の居場所があったと言うの、心細くて怖くて寂しくて、笑えばいい私は貴方にすがろうとして、」
込み上げてきた何かを無理に飲み込むように、娘は五指を突き立て胸元を掻いた。言葉は途切れる。だけど、僕は、あの狂った夜に、不自由な片足を引き摺って、引き返すことを幾度と迷い足を止めながら、彼女が僕を訪ねてきたことを知った。どう償えばいい、幾通りもの言葉を胸のうちに過ごして僕は解らずに、続く叱責を待った。しかし、彼女は与えず、代わりに抑揚に乏しい声で言った。
「企業は貴方の国とも取引があるらしいわ」
「痛みや苦しみを誰かに強いることで生み出された結果を、そうと知っていて購うことは、彼らの行為を許すのと同じね」
唐突に何を、下らない冗談を、仮にそうとしても僕と君の間にそれが何の意味をなすのか。何故だろう、娘は蔑むように僕を見つめる。
込められた懇願に気付いていて、なのに僕は覚悟を決めあぐねた。自分だけは彼女の傍にいて味方であることを夢にも疑わなかった。けれど僕は自らに問うた、延べられた手を握り返せずに彼女を傷つけた現実を前にして、なおも貴様はこの場所に留まろうとするのか。それはとても残酷なこと、娘の言葉を今になって僕は知った。想いの身の丈に似合わないことを自身に言い聞かせ騙し込んで、僕は娘と向き合った。最後に僕は、君のささやかな甘えを許そう、君は僕を憎めばいい、そうして僕は君の荷物を少しだけ預かって姿を消そう。沸々と湧き上がる感情が僕を苦しめる、縋り付いて泣き、許しを請おうとする衝動を歯を食いしばり辛うじて殺した。
「何も、言わないのね」
やがて諦めたように、娘は呟いた。

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