物語の背景は原作に従いますが、主人公の命運はその限りでは無し、それや如何に。



リヒタルゼン(後編)


数日が過ぎた。

僕は未だ、娘を訪ねない、鎖が懐に在って存在を訴えている。

今日も僕は、組合を抜け出して、東の地区を歩くが、手に余る悲しみを想い出して苦しい、やがて立ち止まった。

見上げた鉛色の空には、飛行船が昇ろうとする。
僕は数日中に街を離れる、
地元の人間を借りることで、組合の手は足りたと担当は言った、当座を片付けたら僕はルーンミッドガルドに、帰る。

その前に。

僕は焦っていた、けど。

逡巡するうちに、ぽつりと、頬に落ちた、朝より怪しかった雲行きは、遂に耐えかねた。

娘の家へは、未だ幾らか掛かる。

仕方が無いから僕は表市街へと引き返そう、すると誰か笑った気がして僕は振り返った、笑ったのは僕かも知れない。


宿に帰り着く頃には、雨は本格的に勢いを増して降り始めていた。


服を換えた僕は、横になる、天井を見上げた。

濡れた所為か、少し寒い、

胸に支えるのは、言い訳を見つけて逃げた、自身への失望だろうか、

明日は、違うから、

取り留めなく想ううちに、意識は薄らぎ、うつらうつら睡む、窓の外の雨音が、静けさを却って際立たせる。


部屋の表で気配が動いた。

風が吹き込んだか、
床に下りた僕はゆらり見に行く、果たして廊下には誰の姿も無い、ただ、足元に紙片が一枚、落ちていた。

「貴殿の関心に付いて相談したい、下記を訪問されたし」

読み上げて首を傾げた、しかし、僕は知りたい。


湿りの残る一張羅を羽織った僕は、招きに応じて、ひとつ上の階を訪ねる。

扉を叩く。

また、叩く。

答える気配は無い、脇に貼られた真鍮の板に、誤りの無いことを僕は確かめる、扉に握りに手を掛けた、軽く開いた。

誰か、うつ伏せて倒れている、
様子を窺おうと傍らに付いた手のひらへ、絨毯から何かじわりと染みた。

窓の外が光った。

浮かび上がった視界の赤さと、何を求めたのだろうか、差し伸べられ床を這った腕の白さと、遅れて雷鳴が吠えた。

何か取り落とす音そして、悲鳴が上った。

半開きの侭に成っていた扉の表で、誰か厄介な誤解をしてくれた。
廊下に出る、
騒ぎを聞いた顔々が好奇と恐怖で僕を囲んだ、偶然に居合わせただけだと、拡げて見せた手のひらは汚れていた。

環視の輪が緩む、紺色を着た姿が幾つか現れた。

やましい事は無い。

夢に刷り込まれた恐怖が、しかし僕を震わせる、拙いと知りながらも僕は部屋へと身を隠した。

閉めた扉に背を預け、僕は額に手をやる、

「良くない偶然だ、」

「余りに、」

扉を押そうとする気配が幾度かして、止んだ、そして締めたはずの錠前が、滑らかに廻った。

「用意の良すぎる偶然だ」

毒づいて離れる、直後に衝撃を持って扉が弾けた、鎖が掛かって留めるが長くは保たない。

踵を返し、窓へと駆け寄る、
宿の裏手に面するそれは、永らく開いた気配が無いが、体重を掛けて引くと重く軋んで滑った、視界に雨音が開ける。

半身を乗り出し、下を確かめる、僅か二階が思いの他に高く見えた。

階下の窓に掛かる庇へと、片足を移した、
頼りない、
背後では遂に扉の外れる気配、心の準備も何も無い、僕は跳ぶ、上着の裾が強く風を孕んだ。



雨の底を、長く走った。

軒端を借りて休む、上着の胸に鎖の重さの在ることを確かめて、ようやく僕は溜息を付いた。

何ゆえに僕は追われる、心当たりは無い、
身寄りの無いこの街で、どうする、僕は腕の時計を確かめた、組合の窓口は未だ開いている頃合、僕は軒を発った。

駆け出して程無く、行く手に影が立った。

「組合には既に手が廻っているよ、残念だが」

避けようとした僕に、声が掛かる、
足を止めて僕は姿を仰ぐ、長身が丈の長い合羽を着ている、陰になって表情は窺えない。

「付いて来たまえ、君に選択肢は、他に無い」

有無を言わさぬ調子で言うと、男は背を見せ、早くも先を行こうとする、
雨止まず、空は暮れ行く、身体は濡れ細って寒い、持ち合わせは小銭の幾らも無く、僕は観念して彼の後に従った。


路地を折れること右左、途中で僕は道を考えること辞めた。


やがて男は立ち止まる、片手の何の変哲もない木扉を押し開いた。

がらんと広い、殺風景の部屋だ、
机と椅子とが、幾組か在って、照明は暗く落としてある、その下を時おり誰か往来するが、誰も俯いて印象に乏しい。

「簡単に話す、聞き給え」

僕に席を勧め、言葉を始めた。

「我々は、さる”企業”の内情を秘密裏に調べている、」

「際して、君達の組合に、協力を得ている、」

僕は、初耳だ。

「故に、君の受難に及んで、保護の求めに応じた、何ら不安に想うことは無い、楽にし給え」

楽にして、椅子の背に身体を預ける、と、ぎしり、僅かばかり角度が逝った。

そこへ、現れた姿がある、少し脚を曳く癖と、美しい灰色の髪をした、

君は。

娘も、僕に気付いて驚いた顔をする、戸惑いとも非難とも、つかぬ表情を浮かべた。

そして彼女は、お茶を淹れて来たと想うのだけど、
湯気の上る器を載せた、盆を捧げたまま、意味なく辺りを半周すると、引き返して行った、唖然として、僕は見送った。

「、調査とは、」

遣り取りには気付かず、僕の向かいで男の言葉は続いていた。

「君も噂に聞くだろう、相次ぐ市民の謎の失踪と、研究所に於ける、倫理に悖る行為に関しての」

「内外に協力者を得て、報告は成果を見つつある、」

「刺された男は、我々の協力者だった、惜しいことをしたが、その死は無駄にはしない」

「罪を糾弾し、企業を解体する、」

前置きの、簡単に、は何処へやら、遂に感極まって男は拳を振り上げた。

「シュバルツバルドの主権を、取り返すのだ」

はあ、そうですか、気乗りのしない相槌を返した僕を、物足りなさそうに男は見て、ひとつ、咳払いをした。

「何れにせよ、明日には仮の身分を用意し、君をルーンミッドガルドへと、送り届けよう」

意図の判らない握手を最後に求めてから、やっと、男は長い尻を上げた。


軽く息を整えて、僕は席を立った。

机を挟んで、娘に向かう、彼女は拡げた書類に眼を落としたきり、頑なに僕を見ようとしない。

取り出したペンダントを、机の上に返した。

彼女はやっと、顔を上げた。

「不用意に地区を出歩いて、当局に睨まれたと聞いたけど、もしかして貴方、これを、」

何故か、下の唇を噛むようにして、彼女はまた俯いた。


会話が途切れると、外で雨音が聞こえる。

「珍しい仕事だね、此処は」

「そうですね」

苦しく成った僕は、冗談めかして言うけど、娘は却って落ち着いた声をして、答え、続けた。

「私の脚を治したいと、兄は企業に仕事を求め、連絡を絶ちました」

「彼を辿って、私はこうして、」

「私は見つけて終った、兄の名前を、持ち出された資料の中に、彼の最後を知って終った」

「私は憎みました、企業を、何より、助けを借りて生きるばかりの、不便な身体の私を」

彼女が、また泣くと、僕は焦る、迂闊な話題を悔いた。

「でも、私は、だから今もこうして居ます、私は弱くない、」

心配を裏切って、強い瞳が、僕を見返した。

でも、ちょっと視線が横に泳ぐ、恥じるような照れるような、表情に変わった。

「この間は、不意だったから、それに、これを見たら、兄が本当にもう居ないんだ、って、想って、」

彼女は初めて、机の上の兄の形見へと、手を伸ばした。

君はそうして強い素振りを見せるけれど、
兄の死を胸の奥に仕舞うまでに、果たしてどれだけ悲しかったのか、どれだけ涙を流したのか。

ひょっとすると、今でも、泣いて見せたあの姿が、本当なのかも知れない、緋色の小石を撫でる仕草には、きっと。

「やだ、ちょっと、」

娘が戸惑った声を上げた、僕は慌てて、手の甲で眼の下を横に拭った。

無様で格好悪くて、
同情なんて、彼女の最も嫌うところだろうし、君は助けの手を払った、
僕は大いに弱るのだけど、
涙は後から後から頬を伝って落ちる、彼女は非常に呆れた顔をする、僕は壁に向かって、涙を隠した。

でも、不思議だ、
そうして居ると気が段々と楽になる、肩の辺りに滞っていた悲しみが、一滴一滴に溶け流れ出てゆくような、不思議だ。

僕は随分と長い間、壁と向き合っていた。


部屋のあちら半分の、灯が落ちた。

娘も帰るようだ、
けど、少し考えて、部屋の片隅へと立った、やがて戻り、僕の傍らに液体を満たした器を、無言で少し乱暴に、置いた。

遠ざかる後姿の首筋に、銀色の鎖の在ることを見付けて、僕は胸の安らぐのを感じる。

茶は既に冷めていたけど、美味かった。




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